確実に勝つために ―たくさんの情報を正しく判断する―
この戦いが始まる前に、家康が一番に尋ねた場所は・・・
秀吉の妻であった寧子(ねね)のいる尼寺でした。
寧子は秀吉が死ぬとすぐ出家して、大阪城を
出ていたのです。
その寧子に、家康はまず会いにいったのでした。
それは、彼女の存在が大きいと家康は察知していた
からでした。
豊臣恩顧の大名で、彼女に世話になっていなかった人は
いないと言うくらい、多くの人が彼女に育てられていた
からでした。
石田三成にしろ、加藤清正にしろ、福島正則にしろ、
小さいときから、彼女の手で育てられていたといって
いいほどです。
したがって、小姓育ちの彼らにとって、寧子の存在は
母以上の存在だったのです。
その彼女が「石田三成に組しなさい」と諭したとしたら、
もちろんかなりの抵抗はあったとしても・・・
彼女が——まるで承久の変のときの北条政子のように、
切々と彼らを諭したとしたら、ほとんどの秀吉恩顧の大名が
大阪方に組した可能性は大きかったはずです。
この点を家康が逃すはずはありません。
彼が打った第一の手は、寧子を自分の陣営につけること
だったのです。
おそらく、彼は、寧子の存在を、精鋭5万以上の兵力だと
考えていたに違いありません。
とすれば・・・石田三成がとらなくてはならなかった作戦は、
「まず、寧子に会いに行って、大阪城に入ってもらい、
クーデターを起こして、淀君を幽閉するか、追放して、
豊前の国 中津にいた黒田官兵衛を軍師として迎えること…」
だったはずです。
もし、これが成功していれば、この戦いは間違いなく
大阪方の勝利に終わったはずです。
現在の立場から冷静に考えれば、このような作戦は、
あまりに明々白々ですが・・・しかし、その当時、
その場にいたら、かくも明確に現状を分析できたかどうか
わかりません。
いや、何人の人がこのように分析できていたでしょうか?
しかし、とにかく、家康は直感的にこの状況を
明察していたはずです。
今ここで言いたいことは、あなたたちも
石田三成になるのではなく、家康にならなくては
いけないということです。
現在はものすごく情報は多いのですから、必要なことは、
その情報を正しく判断する能力でしょう。
正しく判断して、勉強してください。
でないと、せっかく勉強したのに合格できませんよ。
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