2014年05月10日

「合理的が悪!?」 ―自分で生きる能力をつけさせるために―

 ある日のこと、私が授業の中で、いつものように

「効率よく、合理的に勉強することが大切だ」という話をしたとき、

クラスが終わった後で、ある女の子が質問に来てくれました。

 その質問というのが、「合理的というのはいいことなのですか。

いけないことではないのですか?」ということだったのです。

 私はこれには猛烈な「ショック」を受けてしまいました。

 私には予想もできない質問だったからです。


 彼女は、「学校では、合理的な考えはいけないんだ・・・

 とばかり言われていたから、合理的でないようにしない

といけないんだと思っていた
。」というのです。


 たしかに、合理的すぎることの例がよく、ドラマや、

教訓的な話に取り上げられて、いかにも「合理性」という言葉が

悪の連想みたいに思われがちです。

 そのため生徒は「合理的」という言葉に悪いイメージを持っている

のかもしれません。

 しかし、このことは普通、合理的にものを処理することはいいことだが、でも、

やり過ぎないようにしなければいけないのだ

ということが根底でなくてはなりません。


 確かに何年か前までは、「競争社会はいけないのだ」といった風潮がありました。

 受験地獄とか、過当な競争だ・・・などと言われていました。

 しかし最近では努力した生徒が正当に評価される社会でなくてはならない

といった意見がかなり聞かれるようになりました。

 物事はいつも、まるで振り子のように、左右に振れ過ぎるものです。


 これらの意見は両方とも正しいのです。

 あまりに過当競争の社会ではいけませんし、また、

このときには必ず、弱者救済の手段がなくてはならないのでしょう。

 しかし、あまりに過保護な社会では、子供たちから『生存するための力』を奪う

ことになりかねません。


 社会そのものには競争が厳然として存在する以上、

もし、子供があまりに過保護に育てられすぎると、

いよいよ、社会に出たときに、当惑して、順応能力を失うのは確実です。

 そうなると、お母さんが「子供には苦労させたくない」といって

過保護にしてきたものが、まったく反対の結果を

子供に与えることになります。

 むしろ、過保護のおかげで、子供の方は、

今までに味わったこともない苦痛を耐えなくてはならなくなります。


 私たちが、いつも考えなければならないのは

「自分たちが死んだ後、はたして子供たちは自分たちで生きていけるのか」

ということではないでしょうか。

 子供を助けることではなく、

『子供に自分で生きていける能力をつけさせる』

ということではありませんか。

白いモッコウバラ




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